公益財団法人 とよなか国際交流協会

リレーコラム(2015年度~)

2016年02月 少しだけ北の国から ~ふくしま@辻より

辻明典(つじあきのり)

「放射能のなかで暮らすこと」
 〈放射能のなかで暮らす〉とはどういうことなのでしょうか。もちろん、ひとりひとり、放射能についての考え方は異なるでしょう。ですからここに書かれたのは、僕から見た一つの〈捉え方〉です。
 道を歩くと、ところどころに低線量の放射性物質がある。ちょっと足を伸ばせば、放射線量が高い地域に入ってしまう。無害なところから放射線量の高いところへと、簡単に移動することができます。このような空間のなかで暮らすことを考えてみてください。二つの〈暮らし方〉が見えてきます。
 一つ目。それは、〈放射能に警戒をしつつ暮らす〉ということ。例えばそれは、放射線量が高い地域には長居をしないようにすること。あまり放射線にさらされないように、つとめながら暮らすこと。僕は、放射線量が高い地域を移動するとき、少しだけ緊張します。あまり長い時間、ここにはいない方がいいのではないかと思ってしまいます。自動車で放射線量が高い地域を通るときは、すすんで窓を開ける気にはなりません。風が放射能を含んでいるような気がして、ちょっと気持ち悪いのです。もちろん、どうしても換気が必要なときに、窓を開けることもありますが。
 二つ目。それは、放射能を〈とりあえずは気にしないこと〉にして、〈やりすごしながら暮らす〉こと。忙しく過ごしていれば、一時的にかもしれませんが、放射能のことをあまり気にせずに暮らすこともできます。低線量被ばくについては、まだまだわからないこともたくさんあるでしょう。もしかしたら、体調を崩すことと引き換えになるかもしれません。でも、放射能を〈とりあえずはきにしないこと〉にして、〈やり過ごしながら暮らす〉ことにすれば、原発事故前と〈同じような日常〉を取り戻すこともできかもしれないと、期待することはできるのです。
 この二つの〈暮らし方〉を見つめてみましょう。二つの〈暮らし方〉のあいだからは、ある緊張関係が見えてきます。それは、対立しているけれども、どちらも無視することのできないという、そんな緊張関係です。
 放射能は気になる。けれど、元の生活を取り戻したい。
 放射能への警戒は、怠らないにこしたことはありません。でも、いつも気を張り続けていられるほど、僕たちは強くない。だから、放射能を〈とりあえずは気にしない〉ことにしたくもなる。わかってはいるのだけれど、忘れたことにしたい。
 なかなか苦しい暮らしです。こういう暮らしを生み出してしまうのですから、やはり原発事故は起こしてはいけないと思うのです。

辻明典(つじあきのり)

協会事業(哲学カフェ、プロジェクト“さんかふぇ”等)に参加していた辻明典さんが、2013年度より故郷である福島県南相馬市に戻り、教員をしています。辻さんからの福島からの便りをどうぞ。