公益財団法人 とよなか国際交流協会

リレーコラム(2015年度~)

2015年09月 少しだけ北の国から ~ふくしま@辻より

辻明典(つじあきのり)

「失くしていく感覚?」
 最近、土着の信仰がだんだんと失われていることが、とても気になっています。
 僕の祖母(もう80歳を過ぎています)が子どものころに住んでいたのは、農業が主要産業の集落でした。その集落には、神社を中心とした祭りがあったそうです。それは4月8日にひらかれ、神楽を担いだ人たちが集落の家々をまわり、みんなでお祝いのために赤飯をわけあう、そんなささやかな祭りだったとききます。
 しかし、いつの間にか、その祭りは4月8日には開催されなくなりました。ご存知のように、年が変われば、4月8日の曜日も変わります。これは推測ですが、祭りのためとはいえ、平日は休みにくいという感覚が、農村にも浸透してきたのでしょう。祭りは、週末開催になったといいます。
 そして、いつしか、祭りそのものが開かれなくなりました。戦後の経済成長とともに人口は都市部に流出し、少子高齢化の波が農村にもやってきて、祭りの担い手となる人は減り続け、ついにはその祭りが続けられなくなったのでしょう。
 こういった例は、各地で起きているのかもしれません。
 もうひとつ、気になることがあります。祭りをはじめとした、このような土着の信仰が消えていくこと同時に、失われていくなにかがあるのではないか、ということです。僕はそのなかに、「感覚」があるのではないかと考えています。
 例えばそれは、神聖なものを神聖だとみなす感覚、などでしょうか。
 いま、福島県南相馬市内では建設ラッシュがはじまっていて、あちこちで災害復興住宅が建てられようとしています。ただ、建てるための土地がなかなかありません。土地を確保するために、我が家の近所にある建設予定地では、神社のすぐ側にある林が伐採されました。おそらくその林は、鎮守の杜の名残でしょう。
 帰る場所を失ってしまった人のために、家屋を提供することがどれだけ大事なことであるかは、よくわかっているつもりです。ただ、そうであっても、鎮守の杜を破壊するのはまずいのではないでしょうか。なぜならばその杜には、その土地の神が住んでいるとされてきたはずだからです。僕たちは、「罰があたる」という感覚を、失くしつつあるのかもしれません。

辻明典(つじあきのり)

協会事業(哲学カフェ、プロジェクト“さんかふぇ”等)に参加していた辻明典さんが、2013年度より故郷である福島県南相馬市に戻り、教員をしています。辻さんからの福島からの便りをどうぞ。