公益財団法人 とよなか国際交流協会

なんぢゃ・カンヂャ・言わせてもらえば

第35回 日本軍「慰安婦」だった

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

日本軍「慰安婦」だった女性たちのドキュメンタリー映画、「終わらない戦争」を豊中で観ることができました。上映会をして下さった、「慰安婦」問題の解決を求める北摂ネットワーク・豊中、アムネスティ・インターナショナル日本北摂クグループのおかげです。二〇〇八年に製作された、六〇分の映画の中で、韓国、中国、フィリピン、オランダの元「慰安婦」の女性たちが、次々と証言する姿は、八〇代とは思えない力強さです。
最初に名乗りを上げた、金学順さんの映像もあり、一九九一年に大阪で証言会をしたことがよみがえりました。ナヌム(分かち合い)の家で、リーダー的な存在だった姜徳景さんは、私たちが制作した教育ビデオ「それでも生きた」にも出演してくださいました。そして、たばこが好きでお茶目な朴頭理さん、小学生だった私の娘の手や体を、自分の孫のようにさすってくれた最初の「ナヌムの家」のハルモニたち、フィリピンのロサ・ヘンソンさんの姿もありました。映画が作られたときには、すでに亡くなっておられた、ハルモニやロラたちのことを思い出しながら、久々に証言を聞きました。
 オランダ植民地下のインドネシアで、「慰安所」に長期間、監禁され、性暴力を受け続けた、ジャン・ラフ・オハーンさんは、「金学順さんが名乗り出たとニュースで知り、いてもたってもいられませんでした。白人の私が名乗り出れば、もっと、注目を浴びると思いました。」と名乗った動機を語ります。戦後、良き伴侶に出会えましたが、彼女も被害の後遺症に苦しめられています。
 一四歳のときに学校の教室から日本軍に拉致された、フィリピンのフェリシダット・デ・ロス・レイエスさんはあまりのショックに、帰宅後、何度も死にたいと思ったが、母親の説得で生き延びることができたと言います。
 いい働き口があるとだまされて、中国の牡丹江に連行された、韓国のイ・スサンさんは「慰安所」生活の中で妊娠し、子宮摘出の手術を受けさせられました。今回の映画出演で、養子の息子さんに、初めてすべてを打ち明けることができたと、泣きながら訴えていました。
 終戦の一年前に進駐してきた日本軍に、乳のみ子と一緒に拉致され、三ヶ月間監禁された、ウェイ・シャオランさんは、「慰安所」で身ごもった日本軍の子どもを生み、育てました。六〇歳になる息子さんは、「日本軍が憎い。でも、そんな日本人の血が自分の体には流れている。」と辛そうに語られます。息子さんの横で、寄り添うように泣き続けるウェイさんの姿に、中国で暮らす二人の、苦難の一端を感じることができました。
 監督の金東元さんは、常に貧しい人たちを見つめる、ドキュメンタリー作品を制作しています。解放後もずっと非転向を貫き、獄中で六〇年以上過ごした長期囚を描いた、二〇〇三年の「送還日記」は数多くの映画賞を受賞しています。今回のドキュメンタリー映画では、証言の入れ方がシャープで、歴史的な背景や、日本政府のあり方、韓国社会の問題点をわかりやすく、そして、深く描かれていることに感心させられました。
 映画上映後、「沖縄で出会った『慰安婦』」と題して、川田文子さんのお話がありました。
川田さんとは、二〇年前に「慰安婦」問題の早期解決を求める運動を通じて、知り合いになりました。久々に川田さんから、ぺ・ポンギさんのお話を聞きました。一九一四年、韓国の貧農で生まれたペ・ポンギさんは、沖縄で「慰安婦」にされ、戦後は「在日」として隠れるように生きてこられました。後遺症の激しい頭痛に悩まされる毎日を送りながら、川田さんのインタビューに答えてくれたそうです。
 川田さんがペ・ポンギさんに出会って、三四年、金学順さんが名乗って、二〇年が経過しました。「慰安婦」の女性たちも高齢になり、早期解決に向けた取り組みや決議が、活発に行われている、今です。これからは、日本軍が残した子どもの問題も、たくさんの人たちと、考えていきたいと思います。

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

1957年大阪生まれ兵庫育ちの在日朝鮮人(朝鮮人は民族の総称)。
在日女性の集まり「ミリネ」(朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会)代表。
「家族写真をめぐる私たちの歴史-在日朝鮮人、被差別部落、アイヌ、沖縄、外国人女性」責任編集。2016年、御茶の水書房刊。
小学校講師。
家族写真を使って、個人のルーツや歴史を知り合うワークを開催している。