公益財団法人 とよなか国際交流協会

なんぢゃ・カンヂャ・言わせてもらえば

第70回 境界線から見えるもの

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

 日本の公立小学校に転校した3年生から高校まで、自分が「在日」であることを明かさなかった私が何故、民族名を名乗り続けているのか。理由はたくさんありますが、大学で出会った先輩たちが、民族サークルや大学だけでなく、アルバイト先でも民族名を名乗っている姿に感動したからです。京都市内のファストフードや観光土産のお店で金や李、梁などの名札を付けている先輩たちは、キラキラ輝いて見えました。民族名を名乗りはじめた私は、「勇気あるな」と先輩たちが誇らしく、自分も先輩のようになりたいと思いました。その思いは、40年を経た今も変わりません。
 そんな先輩の一人と、釜山で30年振りに再会することができました。本国の男性と結婚する前に会って以来です。年相応に変化したお互いの姿を見て、感無量でした。前日に観光した、対馬が見える玄界灘で、揺れる遊覧船に乗り、断崖絶壁の太宗台に登ったはずなのに、違う場所に降りてしまい慌てていると、そこは見たことのある風景。不思議なことに、最初の船着場に戻っていたことや、温泉に入ってくつろいだことなど、笑いながら話していると、学生時代に戻ります。昼食に釜山名物の海鮮鍋を食べ、夕食は豚足(チョッパル)の美味しいお店に案内してもらい、焼酎で乾杯することにしました。釜山市内の抜け道を運転する先輩の姿は、すっかり現地の人でした。30年の空白を埋めるには短い時間ですが、亡くなったお互いの母親や連れ合いのことなど、近況を語り合いました。面白かったのは、韓国に住んだことのない先輩が、カルチャーショックを受けた数々のエピソードです。情に厚い人が多いという反面、釜山はソウルより観光客慣れしていないようで、日本語を話していると、観光バスや食堂で現地の人より後回しにされるなど、ムッとすることがまだまだあります。先輩も、不当な扱いに抗議をするうちに韓国語がうまくなったようです。マンションのゴミ捨て場のルールが変わり、違反したと濡れ衣を着せられたときには「日本から来たから」と言われても引き下がりませんでした。結局、ルール違反をしていたのは他の人だったと判明したのですが、そんなトラブルをたくさん乗り越えてきたのだそうです。韓国が嫌いにならなかったのかという話になったとき、良いところも、嫌なところも含めて祖国なのだからと、共感し合いました。
 晩秋の紅葉や砕け散る荒波を見物しながら、先輩が歩んできた「在日」としての韓国での暮らしに思いを馳せました。本国で生活しても、在留カードを持たせられていると聞き、複雑な気持ちになりました。先輩の実家は神戸市長田区です。震災後、長田も大きく変わり、昔の面影がなくなったと寂しそうでした。生まれ育った日本の良いところも嫌なところも日本人以上に知っていると思うのですが、それでも、日本が好きだと単純には言えません。日本社会から排除されると、祖国への憧れが強くなりますが、そこでの疎外感は辛いです。どこにも所属することができず、いつも境界線に立たされているのが「在日」です。だからこそ、見えるものや、気づくことがあるのかもしれません。
 先輩から、思ったより韓国に対する知識が私にあり、驚いたと言われました。日本だけでなく、南北朝鮮との繋がりはどうなのか、世界的に見て「在日」はどんな立場なのか、奴隷船で連れてこられた末裔が、アメリカやヨーロッパでどのように生活しているのか、植民地支配がどう影響しているのか、学びたいことはたくさんありますが、思うようにはいきません。いつも、「在日」であることを意識しているわけではありませんが、自分だけが引っかかる言葉によく出くわします。そんな時、説明できる力をつけるために、研鑽を積んでおかないといけません。
 先輩の車の中で、政治や経済、情勢など尽きることのない話題で盛り上がりました。日本で、そんな話をすることも少なくなりました。選挙権のない私ですが、衆議院選挙の結果に一喜一憂の夜でした。これからの日本は、世界は、どうなっていくのでしょうか。不安を抱きながら、新しい年を迎えます。たくさんの出会いが支えになった、一年でした。

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

1957年大阪生まれ兵庫育ちの在日朝鮮人(朝鮮人は民族の総称)。
在日女性の集まり「ミリネ」(朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会)代表。
「家族写真をめぐる私たちの歴史-在日朝鮮人、被差別部落、アイヌ、沖縄、外国人女性」責任編集。2016年、御茶の水書房刊。
小学校講師。
家族写真を使って、個人のルーツや歴史を知り合うワークを開催している。