公益財団法人 とよなか国際交流協会

なんぢゃ・カンヂャ・言わせてもらえば

第73回 生きるための日記

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

 一ページ目から、「おおっ、これは」と手ごたえを感じる本に出会えることがあります。
 雫石とみさん、65歳の作品「荒野に叫ぶ声」です。雫石さんは、日本が韓国を併合した翌年の1911年(昭和20年)、宮城県で生まれました。日露戦争直前に来日してきた朝鮮人の父親とおんな土方の元祖だった日本人の母親は働き者でしたが、「稼ぎに追いつく貧乏」のため、雫石さんは小学校六年生の三学期から学校に行かなくなり、奉公に出されます。その後、母親と同じ土方の道を歩みます。20歳のときに両親が病死し、一人ぼっちになった雫石さんは、不安と開放感を胸に上京し、働きます。
 同じ土方仲間と結婚し二人の子どもにも恵まれますが、1945年の東京大空襲で一人だけ、生き残ります。自暴自棄の中、上野の「あおい部落」で、その日暮らしとなりますが、病気になり、婦人保護施設での生活がはじまりました。その時の理不尽な扱い、収容者同士の人間模様を綴ったのが、この本です。区役所の福祉相談所の冷たさ、保護施設職員たちの横暴、同じ収容者なのに弱い立場の人を苦しめる人たち。自分を損なわないために、人間扱いされない保護施設の実態を明らかにするために、雫石さんは毎日、日記に向かいました。書くことで、記録することで、自分を励まし、問題の本質を見極めようとする壮絶な姿に、ぐんぐん引き込まれていきます。一度、保護の味を知ってしまうと、自立することを忘れ、そのまま人生を終えてしまう女性たちが多い中、雫石さんは濁流に棹差すように、仕事を求め、踏ん張ります。「働くのはお金のためだけではない。労働を通して社会に寄与するゆえんでもある」「働くことは生きること、生きることは働くことだという思いに気づかされる」と、自分が必要とされることへの悦びを記しています。
 共同部屋での信心への強要、選挙勧誘、苛め、仲間はずれなど、どろどろした人間関係の中にも、自分の夢や希望を見失わない15歳の少女を見習う場面もあります。読み進むにつれて、監獄や強制収容所のような錯覚に陥ります。まさしく、「女収容所」です。
 55歳のとき労働大臣賞を受賞した雫石さんは、コツコツと貯めた2800万円の私財で、「雫石とみ文芸賞基金」と高齢者をテーマとした文学賞「銀の雫文芸賞」を創設(2008年より新たに「NHK銀の雫文芸賞」となる)。2003年、91歳で亡くなりました。ずっと一人暮らしで、日記をもとに原稿を書いていたそうです。他の著書に『輝くわが最晩年-老人アパートの扉を開ければ』(ミネルヴァ書房)などがあります。
 私も小さい挫折を繰り返しながら、日記を書き続けています。感動したときもそうですが、理不尽な目にあったり、納得できないことがあったりすると、一気に筆がすすみます。何年か前の日記を読み返してみると、現在も悩んでいることに突き当たります。仕事のことや対人関係、一番多く書かれているのが、やはりアイデンティティーについてです。性別や国籍などで、私を排除する人や社会がおかしいと理解はしていても、なかなか、プラスには考えられません。「みんなと一緒」がどんなに安心で楽なことか。違和感ばかりが募る毎日に、救いの光をあててくれるのが、本だったり映画だったりします。
 雫石さんの本を読んでいると、生きていくために必要な「心の拠り所」について考えさせられます。アウシュビッツの生還者、ヴィクトール・E・フランクルさんの「夜と霧」にも同じことが書かれていました。彼は、心理学者として収容所の人々を観察し、記録することで人間の生きる力を伝えようとし、自らも生き抜くことができました。家や学校、地域という場所はあっても、身の置き所がない子どもや大人が、ほっと一息つけるのはどんな時でしょうか。せめて、日記や本の中に逃げ込める方法を思い出してほしいです。 

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

1957年大阪生まれ兵庫育ちの在日朝鮮人(朝鮮人は民族の総称)。
在日女性の集まり「ミリネ」(朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会)代表。
「家族写真をめぐる私たちの歴史-在日朝鮮人、被差別部落、アイヌ、沖縄、外国人女性」責任編集。2016年、御茶の水書房刊。
小学校講師。
家族写真を使って、個人のルーツや歴史を知り合うワークを開催している。