公益財団法人 とよなか国際交流協会

なんぢゃ・カンヂャ・言わせてもらえば

第80回 平和への希求「ケーテ・コルビッツ博物館」

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

ベルリン、クーダムの住宅街の一角にケーテ・コルビッツ博物館があります。大学生の頃、アウシュビッツの生存者や、ナチスに抵抗した大学生グループの「白バラは散らず」の本を読んでいたときに知ったのが、ナチスから「退廃芸術」と烙印を押されたケーテ・コルビッツの作品でした。ナチスが公認した芸術以外は迫害の対象とされた中に、シャガールなどのユダヤ人作家をはじめ、近代美術の作品が多数入れられ、これらの芸術を嘲笑する「退廃芸術展」がドイツだけでなくナチスの占領地でも開催されました。1933年5月10日に反ナチの書物を焼却した、ベルリンの焚書の場所を見学しましたが、ケストナーは自分の本が焼かれるのを見ていたそうです。展覧会も公開処刑といわれたように、言論弾圧をパフォーマンスにして排他的な民族意識を高め、海外の収集家に売りつけることにも成功しました。その収益が、ナチスの資金になったのは言うまでもありません。
 博物館の中に入ると、第一次世界大戦前からのドイツの貧しい人々の様子やケーテの個人史がわかります。1867年、現在はロシアになっているプロイセン東部の町に生まれたケーテは反骨精神の強い両親の影響や、「月賦診療所」で労働者のために医師として働く夫との生活で、社会の底辺で生きる人たちに出会い魅力を感じます。ごつごつとした手、深く刻まれた顔のしわなど、そのリアルさは尊敬、畏敬の念を持って描かれていて、美しいとさえ思えます。子どもを亡くした母親の悲痛な表情から、自分のところに生まれてこなければ死ぬこともなかったのにという後悔や、どうしようもない怒りを一体化して感じることができます。展示室を回ると、彼女が貧しい人たちの中に入り込んで生活し、描いていたことがよくわかります。そんな彼女が第一次世界大戦に志願した息子を亡くし、第二次世界大戦では孫を亡くします。当事者となった自分の怒りや後悔と向き合う作品を観て、ますます、その凄さを感じました。
 個人的な悲しみの原因が社会や政権にあることを気づかせてくれる力作が、1844年のドイツ最初の職工たちの蜂起を描いた版画集「職工」や、16世紀のドイツ農民戦争をテーマにした「農民戦争」連作です。ケーテの時代だけでなく現在にも通じる、不正を糾し生きる権利を求める人々の表情が目に焼きつきます。
 1933年、ナチスへの入党を拒み、制作を禁じられたケーテは68歳になっていました。強制収容所に送るぞという脅迫の中で、亡くなってしまう1944年までの10年間をどんな思いですごしたのでしょうか。彼女が敬愛していた貧しい人たちの多くが、ナチスの扇動に騙され、戦争や他民族迫害に手を貸してしまいます。ナチスの恐ろしさよりも仲間だと思っていた人たちが背を向け、孤立する絶望感に打ちのめされていたのかも知れません。
そんな辛い晩年でしたが、ナチス崩壊を見た二カ月後に亡くなったという事実に救われます。1941年、ケーテ74歳の作品「種を粉に挽いてはならない」は子どもを放すものかと自分のマントに抱え込んでいます。二度と戦争をするなというケーテの強い叫びを受け取り、博物館を出ました。沖縄の佐喜眞美術館に、版画を中心とする56点のケーテのコレクションがあります。2011年には北京魯迅博物館など、中国にも貸し出され、2015年の今春にはソウルで初めての「ケーテ・コルビッツ」展が開催されました。昨今の状況の中で、東アジアの平和を希求するたくさんの人たちの思いが、ケーテの作品を観る事で繋がっていくのだと確信しました。  

皇甫康子(ふぁんぼ・かんぢゃ)

1957年大阪生まれ兵庫育ちの在日朝鮮人(朝鮮人は民族の総称)。
在日女性の集まり「ミリネ」(朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会)代表。
「家族写真をめぐる私たちの歴史-在日朝鮮人、被差別部落、アイヌ、沖縄、外国人女性」責任編集。2016年、御茶の水書房刊。
小学校講師。
家族写真を使って、個人のルーツや歴史を知り合うワークを開催している。